昭和43年4月24日 朝の御理解
                     中村良一


 信心をする者は、肉眼をおいて心眼を開けと仰る。心の目を開けと申します。肉眼をおくという事は、どういう事か。心眼を開くというのは、どういう様な事か。肉眼をおいて心眼を開くという事は。まず、肉眼をおかなければ、肉眼をおいてと仰るのですから。心眼の開ける過程である。肉眼をおいて、言うなら、人間の考えは、一応おいてという事なんです。私どもの考えは、一応おいて、肉眼に見える、その事には、一遍、目をつむれという事です。私ども、人間の考えでは、右が良かろう、左が良かろうと、こう思う。
例えば、入学試験の場合なんかでも、そうですよね。せっかく受けるのですから、やっぱり、通ったが良いのです。通ったが良いと思うから、一生懸命、勉強もさせる、また勉強もする。また、お願もする。これは、何処までも、人間の考えなんです。一生懸命、勉強するという事。その事は、人間の、一つの努力ですから、努力しなければいけません。けれども、入学が出来る出来ないという事は、私共は、出来たが良いと思うけれども、神様は、出来ん方がおかげと思うてござる事があるかも知れません。だから、それから先の事は、お任せしなければならない。お任せをするという事は、人間の考えを置くという事なんです。人間の考えを、一応置くという事。それが、肉眼をおいてと。そこは、人間心を使うな。人間心を使うたら、どうして出来じゃった、もし、出来なかったとするなら、どうして出来なかったじゃろうかとこう思う。これは、人間の考え。だから、人間的な考えというものは、一応、置く事。そして、お任せするという事。これが、肉眼をおいて心眼を開いて行く稽古の第一歩なんです。お任せの生活という事は。五辺、十辺任せたからというて、心眼が開けるとは思われない。けれども、そういう、まぁ、肉眼をおきますでしょう。人間の考え方を置くでしょう。目の前にある、その事態というものには、目をつむってしまうんです、一遍。まぁ、商売人で言うなら、算盤を置くのです。こうしてこうすりゃ幾らになる。特に、神様ごとには、算盤を取るなとこう言われておる。
例えば、福岡あたりから、こうして、朝参りをする。ガソリン代が幾らいる。お初穂が幾らいる。時間が、何時間も費やさなければならない。こう言う風な考え方をするなら、とても、毎日、お参りなんか出来はしません。もう、それだけで生活が出来る、人間心使うたら。けれどもね、信心する者は、肉眼をおいて、心眼を開かなければです。安心の生活も出来なければ、喜びの生活も出来ない。
昨日の月次祭の御理解じゃないですけれども。信心が、楽しいものになってこない。信心生活が、いよいよ、有難いものになってこない。信心は、楽しゅう、有難うさせて頂くもの。けれども、初めから、そんな楽しいものでもなからなければ、私共の若先生が、親教会で、修行中に、朝の御祈念の奉仕をしておる。そして、その御理解に、信心とは眠いものだと言うて、その言うて、聞いておる人達が、笑った人もありゃ、はぁなるほど、そうだというて感心した人もあったと言うのです。過程に於いては、そうなんです。信心とは眠いもんだ。金光様のご信心とは眠いものだ。金光様の信心とは、どういうもんですか。はぁ、金光様の信心とは、眠いもんです。まぁ、私は、名言だと思いますね。そこのところに、一生懸命取り組んでおる者の実感なんです、これは。本気で、朝参りでもさせて頂こうと、今までの、これは実感なんです。ですから、その場合、信心とは、こうも眠たいものかという事になってくるのです。そこのところを、通らせて頂いて行くうちに、眠い、寒い、暑いといった様なことよりも、有難いというものが育ってくるのです。眠くもある、暑くも寒くもあるから、感じない筈がない。けれども、眠いよりも、寒いよりも、暑いよりも、もっと有難いという心の方が、強うなってくる。今まで分からなかった事が、分からせて頂く楽しみの方が強うなってくる。その有難いものが、楽しいものが、生活の中に、織り込まれていく時に、生活のまたじゃなくて、生活も、いよいよ、有難し、勿体なしの信心生活が出来るようになるのです。
またの御理解に、十分の徳を受けようと思えば、ままよという心を出せよと仰る。十二分のお徳を受けようと思えば、ままよという心を出さなきゃいけないと仰る。ままよとは、死んでもままよのことぞと仰っておられます。徳を受けるという事はです。まず、私共が、肉眼をおいて、人間の考えようというものは、一遍、置いて、そして、いわゆる、目の前の事の事態には目をつぶらせて貰うという事なんです。だから、目をつぶっておるから、手を引いて貰わなければ仕方がない。親先生任せ、神様任せ、親先生に手を引いて貰うて、ほら右ぞ、左ぞ、さぁ、足元には危ないものがあるぞと言うて、手を引いて貰って行くうちに、感が強うなる。それを、私は、お徳と。手を引いて貰っておる時が、任せておる時である。神様任せと。親先生任せと。出来る出来ない、なるならないは、もう、あなたにお任せしますというのである。それを、どうぞ、出来ます様に、なります様に。どうぞ、私の願いが成就いたしますようにと言うて、その願いを、一生懸命しておる間は、だから、肉眼的な信心である。いうならば、御利益信心である。どうぞ、右になります様に、左になります様に。けれども、やはり、右になったが良い、左になったが良いと思うから願う。願うけれども、それを、お道では、お取次を頂くと言う。お取次を頂いたら、さぁ、それから先は、もう、親先生のお取次任せだというところに、もう信心が、いわゆる、肉眼の信心から、心眼の開けて行く信心に入ってきた。自分のお願い通りにならなければ、おかげではないと思う時代が、肉眼の信心であり、肉眼の世界にある時代なのです。それからが、いわゆる、任せる。いわゆる、目の前の事の事態には、目をつぶるという事。
例えて、今も申します様にね。福岡あたりから、毎日、こうやってお参りしてくるという事は、ガソリン代を算盤に入れよったら、お初穂の事を思いよったら、とても出来る事じゃない。これは、全ての事にそうですけれども。まして、神様ごとには、そろばんは取るなと。時間がかかったの、お金がかかったのといった様なことは、一遍、置けとこう言うのである。そこに、時間をかけたぐらいの事じゃない。お初穂の、いわば、お供えをしたぐらいの事じゃない。おかげの展開と言うのは、そこからなんです。それは、肉眼を置くから、心眼が開けてくる。心眼が開けてくるところから、または、おかげが頂けてくる。だから、心眼が開けるという事になるかも知れない。どちらが先か分からない。なるほど、算盤を置いていけば、神様任せになれば、先生任せになれば、こう言うおかげが頂かれるという、おかげの実証がです。いよいよ、心眼を開いて行く道すがらになるかも分からない。だから、どちらが先とは言えない。
今朝の御祈念には、山口の(西一)教会の先生がお参りになっておられる。福岡の桜井先生も参っておられる。現在の金光教の組織と言うか、システムと言うか。そういう中にあって、信心の稽古をさせて頂いておると、とても、合楽の教会には、お参りが出来ないです。合楽の教会には、お参りが出来ない。道が違う、手続きが違うと思うたら、参って来られない。けども、そういう人間心、人間的な事をおいて、もう、押して参ってきておられる。これなんかは、いわゆる、肉眼を置かなければ、合楽には、お参りは出来ないという事である。自分が、合楽に思いりしよったら、誰誰先生から、こう言われはせんだろうか。どこどこの教会から、こうやって、突っ込まれはせんじゃろうか。ここのところが、信心させて頂く者はです。変人になれ。変人とは、すぐいことぞ。これがほんなこっだと、これがすぐいことだと思うたら、誰が何と言うても、そこを追求して行こう、求めて行こうという。そういう、私は、姿勢が、肉眼をおいて心眼を開いて行くところの、信心であるという風に、私は思います。合楽にお引き寄せを頂く事によってです、お徳が受けられる。合楽にお引き寄せを頂く事によって、肉眼をおいて心眼を開く事が出来ると確信したらです。人が何と言うても、人から笑われても、そしられても。そこを頂き抜くまでは、いよいよ、肉眼から、心眼へ移っていくまでは、誰が何と言うても、それを頂いて行こう、続けて行こうという様な考え方。そういう生き方が、私は、肉眼を置くことだと、ね。
昨夜の、もう最近の儀理解には、もう全てがそうですね。もう、とにかく、御神徳を頂かなきゃ、神様のご信用を受けなければ、人間の幸せはない。どんなに、おかげを受けて、現在繁盛しておっても。その、ただ、お徳を受けずに繁盛した繁盛と言うのは、砂上に楼閣を建てる様なもの。その証拠には、お徳を受けられた先生のところで、大変なゴヒレイが輝いて、沢山な信者が助かって、沢山な、例えば、商売人なら商売人が、まぁ隆々たる商売が出来るようになった。さぁ、その先生が亡くなられたら、後はもう、影も形も無くなったという様な、信心はもう、根絶してしまったという様な人が、あまりにも多い事実を、私共は、過去の信心に於いて知っておる。ですから、その、おかげだけじゃいかんて。どうでも、今、ここでです、心眼を開く稽古が、いよいよ、お徳を頂かせて頂く稽古が、合楽のお広前で出来るとするならです。その、お徳の頂けれる、いわば、道に出ておかなければ。この生き方で行きゃ、お徳が受けられるという所までは、一つ、お互いが、信心を身につけておかなければ。自分一代で、済むなら済んで良いというなら、それでも良いかも知れんけれども。それが、子供にも、孫にも、いわゆる、子孫繁盛のおかげにもなってくるようなおかげを願うならば、どうでも、身に徳を受けなきゃいかんのです。とまぁ言うて、まぁこうして、私、説かせて頂いておる訳ですけれども。どうもこの、お徳を受けるという話はね、みんなに受けない。例えば、昨夜の御理解頂きよっても、もう、本当に、御神徳を頂くための信心が、語られておるけれども、その中に、面白う、可笑しゅう。例えば、笑い話の一つも入れなければ、みんな、笑い話のとこだけを、みんなが聞きよる。そして、本当に、ここが、お徳を受けるところだという所には、どうも、私がお話をしても、向こうの方へ吸収して行きよらない感じが強い。私、下がってから、それを話したことでした。高橋さんとでしたか。どうも、お徳を受けるという話は、みんなに受けない。御利益の話、おかげの話なら、みんなに受けるけれども。まぁどうした事であろうかと言うて、話した事です。
百万円の徳を受ける。百万円の現ナマがここに於いてある。そら、現ナマの百万円は、大変な魅力である事だけは間違いないです、皆が。ところが、信心させて頂いてです。肉眼をおいて、心眼を開かせて頂いたらです。とても、その、現ナマの百万円なんかは、もう可笑しゅうして手は出されんのです、本当言うたら。肉眼を持ってみたら。とてもとても、徳も受けんに、百万円の金を貰いどもしよったら、大変な事です。神様は、下さると言っても、神様、しばらく待ってください。私に力を頂いて、お徳を受けてからの事にして下さいと、断らなければおられんのだけれど、お互いは、現ナマの方へ手を出そうとする。肉眼を開いてないから、心眼を開いてないからなんです。だから、おかげ話には目を輝かすけれども、お徳を頂かれる話には、眠気が来る。眠気が来ちゃいかんから、笑い話でもすると、ぱっと眼を覚ます。そしてその、笑い話のとこだけが、今日の御理解じゃったような事になってしまいかねない様なものを、昨夜のお話の中に、私は感じたんです。なるほど、その、現実的な、そのおかげというものには、そんなにも魅力があるんですね、やはり。けども、それでは長続きがせん。それでは、あの世には持って行かれん。それでは子供には残しておかれない。
昨日、末永さんが言うております様に、本当に、生神にならせて貰えれる御広前。いうなら、生神学校に入学しようと。神に祭られ、神になるという事を楽しみに信心させて頂く。この方の事を、生神生神と言うけれども、みんなも、このようなおかげが受けられると仰るから、私にも、そういう様な生神の徳を、自分に受けたいという願いに燃える。そこん所の、私は、おかげを頂かせて貰う信心にです。お互いが、一つ、目を開かにゃいかん。同時に、肉眼的なものには、目をつむらなければいけん。現ナマの百万円にはです。本当に、手が出るようにあるけれども。それには一つ、目をつぶらなければいけない。そして、百万円の徳を受けようという事にならなければいけない。百万円の現ナマは、使えば使うだけ減ってしまう。五十万使えば、後はもう五十万。九十万使えば後は十万。後の十万を使うてしもうた。もうそれでお終いなのだ。百万円の徳と言うなら、使うても、使うても減らぬ百万円なのです。百万円の徳と言うのは。使うても使うても百万円。けれども、それは、いうなら、徳と言うのが、目に見える訳ではなし。徳とは、これだというて見せる訳にもいけない。けれども、確かに、お徳と言うものがある事をです。合楽のお広前にお引き寄せを頂くと、はぁ、これがお徳と言うものだろうかというものを感ずる事が出来るであろうが。だから、その徳に、あやからせて貰おうという信心にならなければならぬ。徳にすがって、おかげを頂くだけじゃ詰まらん。あっちの先生は、大変お徳が高いげなから、ね。おかげば頂こう、お伺いばして頂こう。それだけで良かろうはずがないでしょうが。その徳にあやからせて貰う。その徳を、自分に受けさせて貰う。そこで、お互いがです。いよいよ、ほんなら、目の前の事には、一遍、目をつむって、お取次を頂いて、お取次を頂いたなら、それから先は、神様にお任せをする。そして、自分は、一生懸命、お徳を受けさせて頂けるための信心を教えて頂くのであるから。それを本気で頂き、それを行じさせて貰う。その過程が、信心とは、眠たいものだという事になるのである。そこんところを、辛抱しぬかせて頂きよるうちに、眠いもなからなければ、寒いもない。ただ、あるものは有難いものばっかり。信心が、このようにも楽しいものであろうかと。信心生活が、いよいよ、有難い、楽しいものになってくる。身に徳を受ければ心配はないと仰る。徳の無い間は心配をする。お互いがです。日々、どの様な場合でも、心配をせんで済むおかげの心が開けてくる所まで、信心辛抱せにゃいかん。
今日は、信心する者は、肉眼をおいて心眼を開けよと仰る事を聞いて頂きました。肉眼をおいて心眼を開く。心眼を開かせて頂いたら、心配が無い。心眼を開かせて頂いたら、腹の立つ問題でも、有難うなってくる。そのためには、まず、肉眼をつぶさなければ、肉眼をおかなければ、一遍、目の前の事態には、目をつぶらなければ。だから、目の前が闇になる訳です、目をつぶるから。そこで、先生どうぞお願致しましと、先生に手を引いて貰わなければ出来んのです。いわば、探り探りである。その探り探り、手を引いて貰いながら、信心の稽古、信心とは眠いものだ。または、信心とはお金のかかるものだ。信心とは、時間が費やされるものだと言うても良かろう。費やしていくうちに、時間をかけておるうちに、手を引いて貰っておるうちに、感が開けてくる。感が強うなってくる。ですから、これは、さぁもう、今、心の目を開けというても、出来る事
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